「臨死体験」考

先般、人が死ぬとどうなるのか という立花隆氏のリポートをNHK-TVで興味深くみた。
80年代に私はレイモンド・ムーディー博士の著作を既に読んでいて、死ぬプロセスには一定のストーリーのようなものがあることはきいていた。
90年代、立花氏の1回目のリポートが放送され、「臨死体験」という書籍も併せて出版されたので、死からの蘇りというものが、民間のオカルティックな伝承の類ではなく、救急医療の進歩に伴い学問・研究の対象となっているのだということが解った。


研究者のあいだでは、死とは

「別の精神世界への入口」なのだという人たちと、

「脳の引き起こす幻覚」にすぎない

とする人々があり、そうやすやすと答えはでないようだ。

神秘体験を支持するひとたちのいう 「死ぬプロセス」 というのは、体外離脱(自身の姿を見下ろす、医師による蘇生治療や家族の嘆く姿を見る) → 神秘体験(美しい世界、先立った縁者等との再会、川やトンネルのようなものを通過、光の存在との邂逅) といったものだが、これは例えばニューギニアだとか南米、アフリカ等の未知の非文明的な生活を営む民族の臨死体験者に聞いても同じ事を語るのだろうか?

(話しが横道に逸れるが、原始人の幽霊をみたという話を聞いたことは無いが、これはどういうことを意味するのだろう。)

また北欧の国々のように、幽霊や怪異の類をほとんど信じない民族に尋ねたらどうだろうか?
そもそも、臨死体験とは、本当に死んだわけではなく、瀕死ということなのであって、完全にあちら側へ行ってきたわけではないのでは?



一方の脳内の幻覚にすぎないとする説には、もしかしたら . . . と思わせることがある。
「個体発生は系統発生を繰り返す」という学説は、かつて全否定された説だが、詳細はともかく、生物の脳は原初の生物のように、神経・脳幹だけのようなものから、大脳辺縁系が加わり食欲・繁殖の本能・反射だけで生きていたような恐竜が生まれ、さらに理性や未来を予測する能力を持つ大脳という領域が加わり人類が存在するに至った。
死に瀕し、大脳の制御・支配が衰えたとき、古い脳のはたらきがいわば表面化することにより、一定の幻覚を見せるのかもしれない。

(脳死移植の際、脳のどのレベルまで機能停止すれば「脳死」なのか? ということは脳死移植関連法案の議論で問題となった。脳死のようにみえても測定機器の感知できない微弱なレベルでは、脳は生きているかもしれないのである。つまり意識・心も。)


もしそうならよくできた仕組みである。
だが、それは「死んだら終わり」で霊性の不在を意味するのであり、正直なところ楽しくない。
もっとも、もし魂というものがあっても、宗教が説くように苦しい「生」を何度もやり直すのはまっぴらだという人もいるだろうが . . . 。

先年、母の臨終に立ち会うことができたので、試しに病室の上の方を見て、母に呼びかけてみた。
「そこに居るの?」

つづく





コメント

  1. 読ませていただきました。
    人生とは何なんでしょうかね。。。

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